雨はやさしく傷を抉る








「濡れるぞ」

雨が降り出したというのに、中に入ろうとしない子供は、じっと空を見上げていた。しとしとと降る雨はゆっくりと、だが確実に彼の小さい体を濡らしている。
風邪を引くつもりか。そんな愚かなことをするような子には思えない。何か思うところがあるのだろうか。

「クワイ=ガン」
「ほら、おいで」
「…僕、初めてだ」

おいで、と屋根の下から伸ばした手は虚しく宙に浮き、すぐに雨に濡れる。
こちらを見た子供が、こっちに来て、と呼ぶ。その向けられた顔のなんともいえない表情に誘われるまま、雨の中を行く。笑っているのか、泣いているのか。微かな雨のカーテンがそれを隠した。
髪に、肩に、纏うローブが雨に濡れる。ゆっくりと染み込む。パシャリ、と足元の水が撥ねた。
またあの弟子に怒られるな。そう思うも、歩みは止らず、子供の隣に立つ。

「クワイ=ガン」

ローブの裾を子供の小さな手が掴む。にっこりと笑う顔。ああ、泣いてはいなかったのだな。安堵と共に笑みを返す。

「どうした」

問えば、上を、空を小さな指が示す。
見上げると、薄く曇った空。
雨は降っている。空は薄い青灰色の雲に覆われている。所々に青い空が見えた。

「雨が降っているのに空が明るいんだ。どうして?僕、こんなの初めてでびっくりしたよ」

キラキラと輝く瞳は嬉しさを隠さずに伝えてくる。己にしてみれば、唯の雨だ。それを新しい発見のように喜ぶ子供。実際、子供にとっては初めてみるものなのだ。
思わず、しゃがみ込んで目線を合わす。雨に濡れた地面にローブが広がった。

「タトゥイーンじゃあ真っ黒になってバシャーって雨が降るんだ。危ないから外へ出ちゃダメだって言われてたんだ。まあ、雨なんてほとんど降らないんだけどね。だけどほら。この雨は全然平気だよ。…こんな気持ち良い雨、初めてだ。明るくて、優しくて…」

母のことを思い出したのか、子供の顔に少し翳りが落ちる。しかしすぐににっこりと笑って言った。

「良い匂いがするよ」
「それは大地の匂いだ。草木の、土の香り。雨によって呼び起こされた自然、と言ったところかな」
「あそこには無いものだね」

この星にも自然はほとんど無い。しかし、言われるまで気付かなかったが、確かに薫っているものは土や植物の溢れる星で嗅いだあの香りだった。この星にもまだそういうものが微かながらも残っているのだ。あの濃厚な土と緑の香りを思い出す。咽返るほどのそれをいつか、この子供にも体験させてやりたい。どれほどの喜びと驚きを見せてくれるのだろうか。
この子供はきっと大きなものを自分達にもたらすだろう。この子の純粋な驚きや喜び、そして怒りは、きっと自分達に忘れていたものを思い出させる。当然であることが、実はそうでないのだと。ありきたりのことが実はとても素晴らしいことなのだと。他愛ないことがどれだけ幸福であることなのかということを。
この子供はきっと教えてくれるはずだ。
クワイ=ガンは改めてこの子供を見出したことは間違いでは無いのだ、と強く思った。

雨が薫る。微かに。当たり前としているものに気付かせない程度に。知る者だけが知れる程度に。やんわりと。

「あそこのは砂っぽいだけだ。埃っぽくて嫌な臭い」
「そうか」
「うん。…母さんにも見せてあげたい」
「そうか」

子供が大きな手をギュと握った。大きな手はその小さな手を包み込む。冷えたその小さな手に、早く室内に入らなければ、と思うものの、クワイ=ガンは子供のしたいようにさせた。
しばし二人は濡れる体をそのままに、雨を体全体で感じていた。
空を見上げれば、もう止むのだろうか、青い空が広がり始めた。



*****



「アナキン」

聴こえるはずのない雨音にオビ=ワンは目を覚ました。同じシーツに包まっていたはずのアナキンの姿はない。窓辺を見ると、開け放された窓と、夜の光に浮かび上がる人影があった。
溜息を付き、ベッドを降りる。夜風は冷たく、ソファにかけておいたローブを羽織り、歩き出す。放り出されたままのもう一枚のローブに、オビ=ワンはまた溜息を付いた。

「アナキン」
「起してしまいました?」

触れる距離まで近付いても、アナキンは振り向かず、じっと窓の外を見ていた。彼が近付く者の気配に気付かないはずは無い。
声を掛けても驚くこともなく、ゆっくりとオビ=ワンを振り返った。
振り返ったその頬に、オビ=ワンは手を触れる。やはり、その頬は冷えており、思わず顔を顰める。

「全く。すっかり冷えているじゃないか。何をしているんだ」

頬と同じように触れた上半身もすっかり冷たくなっていた。開けっ放しの窓から風と共に水滴が入ってきている。アナキンの体も少し濡れており、オビ=ワンは益々顔を顰める羽目になった。
持ってきた彼のローブを羽織らせて、オビ=ワンは窓を閉めた。

「雨、をね。見ていました、マスター」
「雨?」
「ええ。雨です。今夜はよく降っている」
「雨なんて珍しくもないだろうに。それに窓を開ける必要のないだろう。みろ、こんなに冷えてしまっているじゃないか」
「うん。まあ、そうですね。でも…そういう時ってありません?」
「さあな」

オビ=ワンは肩を竦め、アナキンは苦く笑った。
さあ、おいで、と手を伸ばす師の姿に、先ほど思い出していた人の姿が重なる。アナキンは伸ばされた手を取った。ゆっくりと引かれ、優しく抱き締められる。冷えた体にじんわりと温もりが広がっていく。

「マスター。覚えていますか?」
「何をだ?それにしても冷たいな。全く。風邪を引いても知らんぞ。私まで引いてしまいそうだよ」
「だったら離してくださいよ」
「離せるか、馬鹿者」
「貴方らしい。…雨に当たったくらいで風邪を引きませんよ、今は、ね。ほら、昔もこういうことがあった。貴方は僕にじゃなくて、クワイ=ガンに小言を言っていた様ですけど」
「………そういえば、そういうこともあったな。お前は風邪を引くし、マスターのローブはドロドロになって看病と洗濯が大変だったよ」

そしてその後の任務で彼は帰らぬ人となった。
クワイ=ガン。クワイ=ガン・ジンの名は未だにオビ=ワンの心を揺らす。
アナキンの口からその名は出た時、オビ=ワンはほんの少しだけ、体と声を震わせた。アナキンは気付かないふりをし、オビ=ワンは何事もなかったように話した。

抱き締める腕の力が少し強くなる。抱き締めた体の重みが増す。

オビ=ワンがクワイ=ガンに思いを馳せる時、アナキンはオビ=ワンの彼への思いの深さを知る。オビ=ワンの一番は何時まで経っても彼なのだと、思い知らされた。自分を一番に愛してくれることは無いのだと。彼らの長い時を経て築き上げた深い絆に嫉妬してしまう。
アナキンがクワイ=ガンのことを言う時、オビ=ワンはアナキンの彼への思いの強さを知る。アナキンの父になれるのは彼しかいなかったのだと、思い知らされた。彼らのほんの短い間に築き上げた眩い絆が羨ましかった。

二人はその思いを決して相手に悟らせようとはしなかった。無意識にそれは禁忌となっていたのだった。
まるで傷を舐めあっているようにみえるそれは、その実、舐めてながら傷を抉っているのだと、二人は気付かない。

お互いが何を思っているのか問えないまま、オビ=ワンとアナキンは、じっと窓の外を見ていた。
降り止まない雨は、稲光を伴って更に強くなっていった。



*****



「止んじゃった。ずっと降っていれば良いのに」
「そうもいかんよ、アナキン。それに、優しい雨も長く浴びれば風邪を引く。毛布のように柔らかく包み込みながら、ゆっくりと全てを冷やしていく。知らぬ間に岩を穿ち、金属を腐らせる。さあ、中に入ろう。シャワーを浴びて暖まらなければな」
「暖かいシャワー?たっぷり浴びて良いんだよね?」
「ああ。勿論だ」

早く行こう!と駆ける子供の背を見ながらクワイ=ガンは微笑んだ。
現金なものだ。水分をたっぷり含んだ服は重いだろうに、軽やかに掛けて行く小さな背。
すっかり濡れて汚れてしまった自分の服を見て、生真面目なあのパダワンになんと言い訳をしようか、と考えながら、クワイ=ガンも歩き出した。










FIN