優雅なる午後の憂鬱

※マスタードゥークー/ナイトクワイ=ガンです。








それはそれは穏やかなる午睡にふさわしく、ゆったりとした時間と空気がその部屋を支配していた。

うっかりまどろんでしまいそうになりながら、クワイ=ガン・ジンはぼやけかけた視界にその人をうつす。ゆらゆらとゆらめいて見えるのは、この暖かな陽気のせいか、それとも眠気に抗う乾いた瞳のせいだろうか。
じっと見つめる先の人は全くこちらを意識していない。クワイ=ガンはそれが良く分かっている。だからこそ、じっと見つめるのだ。
向かい合って座っているはずなのに、全く意識を共有していないだなんてなんて滑稽で素晴らしいことなのだろうか。何を考えているのか、何を見ているのかだなんて、想像するのも訊ねるのも馬鹿馬鹿しいことだと、彼と居るとそう思えてくる。

『やれやれ。お前の考えていることは理解できんよ』
『全くです。貴方の考えていることなんて理解できません』

飽きるほどに繰り返した言葉だ。意地になっているのとは違う。だけど本音という訳でもない。少なくとも自分は。彼がどう思ってそれを言っているのかなんて、それこそ理解出来るはずもない。相手のことを理解出来ない、したくないのに、して欲しいだなんて馬鹿げている。

妙なこだわりを持って彼が好む、分厚い紙の束。時代遅れの貴重品は彼曰く、ホロなどより優雅で素晴らしいものらしい。ただ難点は場所を取り過ぎることと、一度書庫になおすと探すのに些かの面倒がかかることだと言ったその顔は、難点を上げているくせにどこか楽しそうだった。
クワイ=ガンには書物を読むことの良さは分からない。ホロの方がよっぽど便利で機能的で、同じ内容なら書物を読むことなんて考えもつかないことだ。
ただ、彼がそれを読む姿を見るのは好きだった。なるほど、ホロなどよりよっぽど彼に似合いで、そうして優雅だと思う。
彼が読むから優雅なのか、書物というものが人をそうさせるのか。あまり他人が書物を読む姿は見かけないが、それでもその数少ない比較対象は得てしてホロと向かい合っている姿より数倍も優雅に見えたものだった。自分と同じように馬鹿をやっていた友人ですら、その姿はどこか知的で繊細に見えた。自分もそう見えるのだろうか。たとえそう見えたとしても彼の優雅さには敵わないだろうことだけは分かっていた。書物を読む姿は確かに人を優雅にして知的に見せるが、もともと優雅なものが更にそうなるのだ。敵うはずもない。

カサリ、とページを繰る音だけが響いた。音と汚れた外気だけが遮断され、暖かな陽気と穏やかな陽光が溢れる室内には先ほどからその音だけが時折小さく主張しているだけで、他にはなにもなかった。規則正しく波打つ鼓動や呼吸はその単調さ故に空気に解けきり、音として機能してはいなかった。
だが、音として機能していないそれらは、その単調さ故に、いたずらに熱量を孕む。その単調さ故に、その侵食速度は凄まじい。
クワイ=ガンは何気なく、本当にただ何気なくじっと見つめていただけだったのだ。その姿を見ているのが好きだったから。他にすることもなかったから。まどろみながら見るのに丁度良かったから。

それなのに、なんということだろう。
きっとあの静かにゆったりとページを捲る指先がいけないのだ。うつくしいとは言いがたい無骨な造詣をしているくせに、肉を断つ感触を知っているくせに、優雅な動きをしてみせるあの手、あの指。あの節くれ立った指の、その滑らかな動きはいやになるくらいに知っている。そんな指先だ。一旦目を奪われてしまえば、もうどうしようもなくなるに決まっているのだ。
だから、自分は悪くはない、といクワイ=ガンは思った。じわりじわりと蝕む熱に、自分の非はない。

じっと彼をみつめる視線に熱が篭りつつあるのをクワイ=ガンは知っていた。身体を震わす熱にも、背を昇っては降る痺れにも、もちろん気が付いている。それでも視線は外さない。それでも彼はこちらに意識を向けない。
鼓動も、呼吸も、何一つそのリズムを崩さず、変わらずに空気に混じる。響くのはやはり紙の擦れる音だけだ。
ただ空気が孕む熱量が少しずつ増えてゆく。

気付いているのか、いないのか。どちらでも良いと、そうクワイ=ガンは思った。どうせ彼が考えているのことなど、判りはしない。
彼が動くまでただこうやってじっと見ていれば良い。もしこの疼きが我慢できなくなったらこちらから仕掛ければ良い。
我慢でも意地でもない。だたそういう流れに身を任す、それだけだ。熱はいずれ去る。どれほどのものでも、だ。身体の熱は自分で処理できる。だから逃したくなければ動かなくてはならない。それも流れだ。

理解できないのだ。相手の気持ちなど。互いにそう思い、そう言うのなら、思いやりなど意味がない。それが良いのか悪いのか判らないのだから。そうお互いに言ったのだ。だからクワイ=ガンにはそれを躊躇する必要などない。彼も躊躇しないだし、お互い様だ。

ゆらめいた視界はこの暖かな陽気のせいか、眠気に抗う乾いた瞳のせいか。それとも欲望に潤んだ眼差しのせいだろうか。
それを決める決定権を、今しばらく読書に没頭する男に委ねよう。

ああ、でも。
健全な空気こそ、いやらしい熱を孕み易いんですよ。
そう言ってすました顔をした彼を襲ってしまうのも良いかもしれない。










FIN